ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第三十二話「生きた箱庭」




 ジョゼフ王の呼び出しはこれで二度目となるが、リシャールはまたもや驚かされることになった。
「やあ、こちらに来たまえよ」
 部屋そのものは、グラン・トロワの大きさからすれば極端に広くない。リシャールの感覚で言えば、十五メイル四方あるかないかというところだ。
 しかし、部屋の大半を占める巨大なジオラマは、どう表現したものだろう。
 精緻な細工でハルケギニアの全土が作られており、ご丁寧なことに魔法仕掛けなのか、空中大陸アルビオンは本当に浮いている。そこに騎士人形や旗を持った兵隊、小さなフネが並べられていた。
 ジョゼフはその部屋の隅っこ、ジオラマが見下ろせる場所に座り、リシャールを手招きしている。狭いながらも階段のついた台と小さなテーブルがあり、全体を一目で見下ろせるようになっていた。
「失礼します」
「まずは乾杯しよう」
 リシャールが酒杯を受け取ると、ジョゼフは手づから琥珀色の酒を注いだ。まろやかなブランデー様の味と香りに、あるところにはあるもんだなあと熱い息を吐き、再びジオラマを見下ろす。
 そう言えば、ジョゼフ王は騎士人形を並べて戦わせる戦争ごっこを日頃から好んで行うと、聞いた覚えがあった。流石は大国ガリアの王、道楽にしても豪快だ。人形もジオラマも、随分と丁寧に作られている。これで鉄道模型でも走っていれば、そのまま現代日本の博物館の人気コーナーに鞍替えできるだろう。
「余もこれを余所の『陛下』に見せるのは初めてでな」
「実に精緻だと、圧倒されました」
 リシャールは素直に賞賛して見せた。それほどの出来映えである。
 うちもあるかなとセルフィーユに目をむければ、騎士人形が一つとフネの模型が二隻置かれていた。各国の軍港があるラ・ロシェールやロサイス、サン・マロンが層になった台を増設されてフネが数え切れないほど置かれているのに対して、セルフィーユ周辺は随分と寂しい。
 だがそこで気付いたことに、リシャールは再び驚かされることになった。
 よくよく目を凝らせば、リュティス付近にはトリステインやアルビオンの艦隊だけでなく、『ドラゴン・デュ・テーレ』と思しきフネまで配置されている。
 つまりこれは、『現在』のハルケギニアの軍事力をそのまま縮図にした、生きた模型なのだ。間違っても兵隊ごっこの遊技盤ではない。少なくとも、軍が使う作戦地図以上の価値がある。
 リシャールには、この大国の王が『無能王』というあだ名を自分で付けたのではないかと思えてきた。知恵袋の家臣でもいると思っていたのだが、どうやら違うのではないか。列国を向こうに回して諸国会議を仕切り、セルフィーユ王国を誕生させてしまった手腕と言い、無能王という名が広まる原因となった魔法の腕以外はこの調子なのだろうかと疑問が浮かぶ。
「どうかしたかね?」
「……この模型の維持費を考えて、卒倒しそうになりました。
 情報は大事でしょうが、調査に人を送る費用だけでうちなら間違いなく破産します」
 抗えぬ視線に、思ったままを口にする。常にハルケギニア中に人を送って情報を集めなくては、このジオラマは死んでしまう。
 ジョゼフは一瞬だけ目を丸くすると、大きく笑って手にした酒杯を飲み干した。
「ハハッ、リシャール王、君は実に愉快だな。
 この箱庭を見て何を思うかと楽しみにしていたが、余とは視点が全くかけ離れていながらその効果は理解するのか。
 ……ああ、そう言えば君は内政の手腕が優れていると、トリステインでは有名だったな」
 リシャールは気付いたのではない。知っていただけだ。
 コンピュータで情報が逐一更新される地図を前に戦争や政治を論じる映画や小説など、枚挙に暇がないほど前世には存在した。目の前のジオラマは随分アナログだが、その効果に大して違いはない。

「なるほどな。
 対人戦に城攻めに使う大ゴーレムなど、鈍いばかりで役立たずかと思ったが、そうか、人は大きなものを恐れるのだったな」
「逆に三十サントもない小さなゴーレムで、夜中にこっそりと火薬入りの瓶を城壁の下まで運ぶ事もできます。
 どちらも対策はありますので、戦術としては陳腐化しているそうですが、無視して足を掬われることも……」
 その後、リシャールが土のメイジと言うことで、ゴーレムの戦力評価や、岩を投げたときの命中率、突進速度など、やたら細かい質問を幾つか受けた。どうもこちらは本当に兵隊ごっこの参考にするらしいと、リシャールも少し気楽な気分で受け答えを続ける。
 手の内が知られるからと隠す意味がないほど、ガリアとセルフィーユの国力は離れていた。同じ王同士でも、笑えと言われれば笑うしかないのだと痛感する。
「そうだ、そちらの後ろ盾に王弟家をつけることになっている。
 ついでだ、帰国の際連れて帰るように」
 本当についでのような口振りでガリア王弟家の話題が振られ、リシャールはジョゼフの横顔に見入った。酒の入った飾り瓶は、いつの間にか空になっている。この話題と共に、酒席もお開きと言うことなのだろう。
「王弟家の奥方様は、病を得ておられると聞きましたが……」
「うむ」
「ガリアのお力でも、治せないご病気なのですか?」
「どうだろうな……?」
「えっ!?」
「多分治せるとは思うが……そう言えば、誰にも聞かれたことがなかったな。
 余にそれを聞いたのは、リシャール王が初めてだ」
 不思議そうに首を捻るジョゼフのあまりと言えばあまりの言葉に、リシャールは返答を窮することになった。
 だが叛乱の末に一度蟄居廃家となった王弟家では、王の態度ももっともかと俯く。
「リシャール王は治した方がいいと思うか?」
 短いながらも政治的意味と道義的意味を同時に含む、実に難しい質問だった。
 しかもガリア王が退屈する前に、答えを出さなくてはならない。

 王弟妃オルレアン夫人の病を放置すれば、病人を抱え込むだけで王弟家のセルフィーユに対する政治的影響力はほぼないと思われた。代わりに人手は取られるし、城には雰囲気も含めて重荷となり過ぎる。カトレアと違って多分セルフィーユでは治療出来ないし、リシャールの精神衛生上とてもよろしくない。
 だがオルレアン夫人の快復は、セルフィーユへと来る王弟家に政治的な動きを許してしまう可能性を秘めていた。彼女の病は心の病であったから、病が去ることで復讐の鬼が誕生するかもしれないのだ。こちらも同様によろしくないのだが、さて……。

 リシャールは一瞬目を瞑ってから、決断を下した。
 どちらに転んでも酷い結果なら、まだしも言い訳の立ちそうな方が賭率はいい。小さな王国は、政治力を弄するよりも慈悲や道徳を手に世界の同情を集めて戦うのだ……。
「是非、治療をお願いします」
「……うむ、そのように計らおう」
 それを合図に酒席はお開きとなり、リシャールは再びフードの女性と騎士の案内で奥向きから退出した。
 どうにも釈然としない気持ちは残るが、あのジョゼフ王の態度からは様々な想像をかき立てられすぎて、答えを導けない。
 顧客のパターンで分類するなら、いわゆる警備を呼ぶかどうか判断を求められるタイプの要注意人物の可能性すらある。……こちらでは立場の差がありすぎて対処のしようもないが、夫人の治療についての不自然な態度は覚えておくべきかも知れない。
 リシャールはそれらを胸のうちに収めて、トリステインの控え室へと戻った。明日も会議があるアンリエッタらは流石に宛われた離宮へと戻っていたが、不寝番の魔法衛士隊騎士に言伝を頼み、宛われた寝室に向かう。
 ジャン・マルクの敬礼を受けて、リシャールもようやく一息をついた。
「夜分ご苦労様」
「リシャール様こそ。
 さあ、お休みになられて下さい」
「ありがとう。
 ……明日は昼寝をたっぷりと許可しますから」
「なんの、二、三日なら平気ですよ」
 くすりと笑顔を交わしてから、明日もよろしくとリシャールは寝室に消えた。

 翌朝の朝食はアンリエッタとマザリーニに挟まれ、昨夜の報告に終始した。
 一晩明けても昨日の衝撃が抜けきっているとは言えないが、動かなくては結果が着いてこないと自らを叱咤する。
「ほう!?
 では、ジョゼフ王のご趣味のあれは、兵隊ごっこではなく軍の机上演習に近いと?」
「ゴーレムについて詳しく聞かれたので、本当に兵隊ごっこもされているとは思いますが……多分、私たちが考えていたような、子供と変わらぬ人形遊びではないものと思います」
 ジョゼフの兵隊ごっこは、統裁官を置いて本物の軍司令官が参謀と行う本来の意味でのシミュレーション・ゲームに近いのだが、リシャールも盤上遊技の方のシミュレーション・ゲームのご先祖様が、そちらであることぐらいは知っていた。
「現物は一番大きな、遊技盤ではないハルケギニアの箱庭しか見せて貰えなかったのですが、少なくともルールはあるようでした」
「そちらも問題ですわね。
 軍の動きが筒抜けなんて……」
「殿下、平時の軍なぞ互いに位置は筒抜けです。
 そこまで詳しいものはなくとも、トリステインも各国の軍の動きはそれなりに把握しております」
「そうですの!?」
「はい。
 有事の一時にさえ動きを隠せればまだましとされておりますし、軍は巨大な胃袋と申しましてな、運び込まれる食料、消費される物資……密偵の一人二人と違い、隠しようもないのです」
 マザリーニの言うように、正規の軍隊は隠しようもないし、見せ札として使う方が効果的だ。ここには軍がいるぞと喧伝して、敵手が動きを躊躇う効果が期待される。夜襲だ奇襲だ隠蔽だと行動が問題にされるのは作戦段階であって、平時とはまた意味が違った。
 これらはラ・ラメー艦長やレジス司令官の受け売りだが、領地の総指揮官が全く軍事知識を持たないのも困ると、時にリシャールは彼らを教師として途切れ途切れに講義を受けている。だが結局は、方針を決めて専門家に丸投げするのが一番良いらしいと、何が身に付いたのか分からない答えを導いていた。
「そうでした、猊下」
「なんでありましょうや?」
「今回の一件について……教皇聖下の元へは、ご挨拶に伺った方がよろしいのでしょうか?」
「ふむ……」
「……」
 マザリーニは難しい顔をしていたが、アンリエッタまでが眉根を寄せている。
 自分だって進んで会いたいわけではない。だが、そこまで露骨に嫌がられるような人物なのだろうかと、少々首を傾げる部分もある。
「……避けて通れぬ面倒事なら、先に済まされた方がよろしいでしょうな」
「ありがとうございます」
「会議の時にでも、バリベリニ枢機卿に伝えておきましょう。
 全く知らぬ相手でもありませんから」
「使いだてして申し訳ありません」
 お気になさらずと言い残し、二人は会議へと出席する為に部屋を後にした。
 残されたリシャールも、暇を持て余していたわけではない。ジャン・マルクに再び伝令を命じて、『ドラゴン・デュ・テーレ』に本日中の出航はないが、明日明後日にはロマリアへと行くかもしれないので一同は十分休息するように伝えると、出来上がるのが宗主国付きの侯国から王国に変わったことで修正しなくてはならない施策や準備について、大急ぎでまとめることにした。

 箇条書きにした問題点に優先順位をつけていた昼過ぎ、ジョゼフ王からの伝令役がリシャールの元を訪れた。
「リシャール陛下、オルレアン夫人の病についてですが、治療薬の製造には一週間ほど掛かります。
 その間の滞在には、このヴェルサルテイル宮内の離宮を一つご用意いたしましたので、ご自由にお使い下さいませ」
 この大国は、心の病を治す薬を一週間で製造する技術を持っているらしい。魔法薬は水の領域、水の国トリステインは果たして同じ作業を同じ時間でこなせるのかどうか……。
 早く帰りたいのは山々だが、オルレアン夫人を放置するわけにもいかなかった。しかし、一週間のリュティス拘束は少々きつい。観光という気分はとうに吹き飛んでいる。
 ……だが、もう一つ大事な仕事があったことをリシャールは思い出した。
「ありがとうございます、ジョゼフ陛下には、リシャールが大変感謝していたとお伝え下さい。
 ただ、明日よりの数日はロマリア訪問に充てたいので、予定が決まり次第、ガリア側のセルフィーユご担当の方に連絡いたします」
「承りました。
 国王陛下にもその様にお伝えいたします」
 一度ロマリアを訪ね再びリュティス、王弟家の親子とともにようやくセルフィーユへと『帰国』。皇都ロマリアまではリュティスから普通のフネで往復十日と少し、空荷の『ドラゴン・デュ・テーレ』ならもう少し早いだろうか。
 当面の予定はこれで決まったようである。

 夕方になって戻ってきたマザリーニから、リシャールは教皇聖下の動向を知らされた。現在は皇都にはいないらしい。
「アクイレイア、ですか?」
「はい。
 教皇聖下は現在、ロマリア国内の諸都市に祝福を授けるため巡幸……いや、言葉を飾ってもしかたありませんな、各地で人気取りをされているそうで、現在は北部のアクイレイアに滞在中とか」
 母国どころか教皇聖下に対しての不敬も隠そうともせず、マザリーニは飄々とした様子で斬って捨てた。
 この人は一時期、次期教皇の座は確実とも言われたほど枢機卿中でも筆頭格に近い聖職者だったはずなのだが、トリステインに肩入れしすぎているのか、政治と信仰が心の中で完全にわけられているのか……。
 信仰を謳いながら現世利益に肩入れをしすぎるロマリアに、本気で嫌気がさしているのかも知れないなと、リシャールは都合良く解釈することにした。
「ガリア国境にほど近い都市ですからな、往復してもフネなら一週間はかからぬでしょう」
「明日、出航することにします」
「くれぐれも、お気をつけなさいませ」
「ありがとうございます、猊下」
 近い分移動が楽になったと喜ぶべきか、心の準備が出来ぬと嘆くべきか。
 マザリーニと入れ代わりに入ってきた文官からガリア領空の通行許可証が手渡され、リシャールはそのまま今夜の宿泊先となる離宮へと案内された。

 宛われた離宮は名をサン・シールと言い、セルフィーユの別邸より少し大きい程度でリシャールを安心させた。もっとも、中身は比べものにならぬ程豪華で、精緻なステンドッグラスで飾られた礼拝堂まで備えている。
「ジャン・マルク隊長、これを急ぎバリベリニ枢機卿に」
「了解であります」
 直接会いに行くのも『うちには何故挨拶に来ない』とゲルマニアの機嫌を損ねそうで、同時にまた、王位を盾に『教皇』の代理人を呼びつけられるわけもなく、バリベリニ枢機卿には礼状を認めて詫びと挨拶に代えた。会う暇があったら明日の準備という、実際の問題もある。
 幸いウェールズとアンリエッタがこちらを訪ねてくれたので、僅かながらに手間が減った。マザリーニが手を回してくれたようである。個人的に親しいなら、こうして気軽に行き来しても礼儀や体面は二の次に出来るのだが、面倒なことである。
「宰相はいま、ゲルマニアの皇帝閣下と会談中よ。
 国境線で揉めているのは、大国同士ばかりじゃないの。
 リシャールはオクセンシェルナってご存じ?」
「名前ぐらいは……」
 オクセンシェルナはセルフィーユから見て北東、氷の半島と呼ばれる北の海に面した大きな半島をベルゲンと二分する比較的大きな『小国』である。もっとも、リシャールもその程度しか知らない。セルフィーユから見てゲルマニア、アウグステンブルクを挟んだまだその向こうにある遠い国だった。
「大陸に近い離島の領有権のことでゲルマニアと揉めていて、仲裁を頼まれているの。
 アルブレヒト閣下の代になってからは、特に酷いそうよ」
「領土欲と拡張政策が上手く回っているからね、あの国は」
「領土の拡張か……。必要もないだろうけど、うちには一生縁がなさそうな話だよ」
 いまでも手一杯なのだ。地続きならばともかく、アリアンス島でさえ持て余している。
「そうそう、今後の予定だが……。
 君がロマリアに向かっている間に、私たちは会議を終えて国に帰るだろう?
 大使館の件も含めて、こちらで出来そうな手配は済ませておくよ。
 君より早くセルフィーユに連絡は付けられるだろうから、預かりものがあるなら出発前にまとめておいてくれ」
「ありがとう、今回は本気で頼らせて貰うよ」
「……ああ、ついでにエルバートを君に預けていこう。
 アラクリティー級ならもう一騎ぐらい、竜も乗せられるだろう?」
 リシャールとは友人であるアルビオン貴族、ブレッティンガム男爵エルバート。彼はウェールズのリュティス行きに従い、護衛部隊の一員として竜騎士隊を率いていた。
 ちなみに『ドラゴン・デュ・テーレ』は、アルビオンのロサイス工廠にて建造の元アラクリティー級重装フリゲート一番艦『アラクリティー』であり、主要要目は筒抜けである。
「重ねてすまない。エルバート殿も竜もお借りするよ。
 アルビオンにお礼を言いに行くのは、セルフィーユが落ち着いてからになるね。ガリア王弟家の件もあるし……。
 ジェームズ陛下にも早々にご挨拶したいけど、ひと月ふた月は先になりそうだ。
 トリステインは……帰国の時に挨拶回りしないと、こっぴどく怒られそうだなあ……。
 ラ・ヴァリエールの上空は、流石に素通りできない」
「うちのお母様は後回しでもいいでしょうけど、公爵には一言ないとだめよね。
 ……わたくしが、先に怒られておくことにするわ」
 リシャールとアンリエッタのため息が重なった。

 翌日早朝、半ば徹夜でまとめた手紙と命令書、それに雑多な走り書きを書類鞄に詰めてアルビオンに託し、リシャールはガリア差し回しの馬車列に花壇騎士と、行きがけ同様の大名行列で港の『ドラゴン・デュ・テーレ』に戻った。挨拶は昨日の内に済ませている。
 桟橋では、渡り板の手前にラ・ラメー艦長とブレッティンガム男爵エルバートが待ちかまえ、『ドラゴン・デュ・テーレ』には甲板の前後に二頭の竜、そして白い水兵服の乗組員達が等間隔で整列していた。登舷礼にしては人数が少々寂しいが、それが今回のリュティス行で乗員を減らした『ドラゴン・デュ・テーレ』の問題だけでないことは、セルフィーユで二番目ぐらいに良く知っている。
「陛下の御即位並びに御建国、心よりお祝い申し上げます」
「ありがとうございます、エルバート殿」
「陛下、出航準備、完了しております」
「ご苦労様、艦長」
 いつもなら敬礼するところを代わりに跪かれたが、人目もあるのでやめて欲しいとも言えなかった。ここはセルフィーユではなくガリアであり、更には誰であれ示された礼節は踏みにじるものではない。
 リシャールは二人の手を取って立たせると、小声で告げた。
「できれば、艦内ではこれまで通りでお願いしますね?」
「了解であります」
「承知いたしました」
 リシャールは一度『ドラゴン・デュ・テーレ』を見やって、水兵達に答礼を送った。
「……では、目的地はロマリア皇国アクイレイアです。
 艦長、頼みます」
「はっ!
 副長、全艦に出航を告げよ!」
「はっ! 出航告げます!」
 こちらに残る者は居らず、全員が乗船して渡り板が外された。
 いつもの出港時と同じく、ばたばたと忙しくなる甲板を通り抜ける。
 リシャールはアーシャの前で立ち止まった。
「きゅう……」
「ほんとにごめんね、アーシャ。
 退屈だった?」
「きゅい!」
 大きく頷くアーシャに、僕も退屈だったんだけど、それどころじゃなくなったと抱きつく。
「後でちょっと飛ぼう」
「きゅ」
「うん。またあとでね」
 ぽんぽんと首筋を強めに撫でて、リシャールは司令室へと消えた。

 挨拶や口上は横に置いて、早速アクイレイア行きの予定などを確認する。
「今の季節なら、アクイレイアならば明日の昼には到着できます。
 帰りは風の具合にも因りますがその倍、三昼夜もみておけば大丈夫でしょう」
「意外に近いのですね」
「リュティスはほぼガリアの中央にありますからな」
「私もそちらは初めてなので、楽しみにさせていただきますよ」
 エルバートは、別命あるまでリシャールと行動を共にすることになっていた。セルフィーユにも、しばらくは逗留することになる。ガリア王弟家の件もあって、トリステインからも大使や応援とは別に人が派遣されることになっていた。
「それにしても、アクイレイアと言えば水の都でしょう?
 艦長は訪問されたことがおありかな?」
「見習い航海長の頃に一度、寄港しております。
 港が詰まっていて、街から離れた野っぱらに艦を降ろした覚えがありますな」
「馬車の代わりに運河堀を小舟が行き交って、人や物を運ぶとか?」
「あれも善し悪しですな。
 優雅な観光が出来るどころか、ちょっと飲みに行くのにも船賃がかかって仕方がありません。
 聖域たる教会と市井が区分けされていましてな、酒場は我々が宿舎にしていた修道院からはずいぶん離れた島にありました……」
 アクイレイアは、ベネチアか柳川、あるいは昔の江戸や大坂のような、市街に水路が張り巡らされる水都だった。小舟での市中観光や荘厳華美な大聖堂、他にはステンドグラスなどのガラス細工が有名らしい。
 また観光どころではないのだろうなと、渋面を作る。
 ……街道工事が立ち消えてしまい宙に浮く工事関係者に、ラマディエ市中の一部、例えば空港や製鉄所などに運河を掘らせてはどうかと思い浮かんだのは、翌朝、アクイレイアが見えてきた頃だった。








←PREV INDEX NEXT→