ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第三十七話「リシャール・ドニエ」




 庁舎の前で建国の宣言を終えたリシャールは、庁舎二階にある真新しい玉座の間の裏、その控え室へと足を進めた。
 先ほどの宣言が国民……平民に向けた儀式なら、こちらは王を中心とした支配層を形作るためのもう一つの儀式である。
 これから玉座の間では、貴族の叙爵および叙任式が行われるのだ。

 元々トリステイン貴族であった空海軍士官たちはともかく、セルフィーユにはセルフィーユ家以外の貴族家は存在していなかった。数年で再併合される侯国ではリシャールが走り回って顔を出していればよかった行事も、恒久的な国となるならば話が違ってくるし、そうほいほいと各種会合に王様が顔を出すと今度は相手方も高い爵位を有する高級官僚が出なくてはならず、お互いに面倒なことになると、マザリーニを始め方々から説得された結果でもある。
 ……軍の高級指揮官に閣僚級の数人と外交官吏に任期中のみ一代貴族として爵位と年金を用意する、下級官吏にまでそれを適応する、では村長らはどうするのか、いやリシャールの知る数百年後の民主社会を見据えて貴族層を一切排除するかなど、様々な選択肢が浮かんでは消えた。いっそ各地に領主を任命すれば自分は国政や外交に専念出来るかとも考えたが、上がってくる税収が確実に減るし、代官に懲りているセルフィーユでは間接支配への反発も強いかと思い至って取りやめた。
 貴族は任命すればよいというわけもなく、その為に支払われる年金も馬鹿にならないし、教育も欠かせない。
 色々と検討したのだが、悪目立ちを恐れたこと、実際に幾人かの文人貴族は必要であると結論が出ていたこと……ハルケギニアのあり方に倣うのが一番良いかと、結局はセルフィーユにも新たに貴族層を作ることに決定した。ゲルマニアのように売官まではしないが、論功行賞の対象として功労金や年金のついた勲章と同様に扱い、平民の貴族化についても初回の特例とせず今後もあり得ることを公表している。
 だが方向を決めてしまうと、今度はその内容もリシャールを悩ませた。
 支配層を固定化するメリットとデメリットも同時に検討し、誰をどの地位に引き上げるのか、不公平感はないか、実状と乖離していないか……。
 自家の維持費やガリア王弟家の生活費も含めて貴族年金に使える予算と相談しながら、リシャールは一人で人選を進めた。
 わずか数日の選考時間しかなかったが、最終的に決定したのは当日の朝、つまり今朝である。

 小部屋にはマリーを抱いたカトレアだけが、リシャールと共にくつろいでいた。参列の文官武官が並んだところで招待客が後から加わり、呼び出しを待っての登場となるからそれまでは休憩となる。
「お客様のご案内がございますので、今しばらくお待ち下さい」
 従者が一度退出し余人の目を逃れたことで、やれやれと身体を伸ばす。
「お疲れさま。
 ……やっぱり、演説は好きじゃないの?」
「そうだね。
 自分が自分じゃなくなるような気がする。
 得体の知れないものに引っ張られる感じでね……」
「とうさま、にーって」
「そうね、お父様は笑ってる方がいいわね」
「……あー、うん。
 マリーはえらいなあ」
 物事の本質を突くことにかけては、自分の妻子たるこの母娘は天才的なのかもしれない。
 リシャールは、素直にその言葉に従った。

 しばらくして呼び出しの前触れに従者が現れ、リシャールも玉座の間の裏口に立った。
「セルフィーユ王国国王リシャール一世陛下、並びにカトレア王妃陛下、マリー・ブランシュ王女殿下御入来!」
 裏から聞くと少々音がこもっているのだなと、緞帳の隙間から上を見上げる。
 まるで舞台装置のように、式典の進行やリシャールの出入りにあわせて紐が引かれ、進行係から呼び出し役やラッパ手の元に信号が送られる仕組みがいつのまにか出来上がっていた。王宮内で音もなく裏方が動ける理由にはこんな仕掛けがあったのかと、トリステインから借りていた侍従が予算書きと設計図を手に職人を引き連れて走り回っていた姿を思い出す。
 梯子の先を見上げれば、天井近くに設えられた台座の上に、軍服を脱がされて侍従のお仕着せを着せられた司令部付きラッパ手、オノレ一等兵の姿があった。しばらくは彼も、式典のたびに呼び出されることになるだろう。ラッパの吹ける従者の必要性などこれまで一度も考えたことがないセルフィーユ家では、よくぞ一人でも配下にいたものだと幸運に感謝するばかりである。
 オノレ一等兵が、大きく息を吸い込んだ。『国王出座の調べ』が高らかに響きわたる。
 こちらの曲も当然トリステインからの借りもので、先のトリステイン王アンリ四世の没後、公式の場でこの曲が流されるのは数年振りであった。
 数小節と短いフレーズの最後を待ってから、リシャールは段座へと歩き出した。
 玉座の間は本来の広さこそ大したこともないが、そこはやはり数千年の歴史を誇るトリステインより借りた知恵が遺憾なく発揮され、多層の緞帳と壁色で見た目を誤魔化している。
 段座の下には左右に分かれて武官と文官、客たちが列を作って膝をつき、リシャールらを迎えた。
 段座の中央には、頂部にセルフィーユ家の紋章が彫り込まれた玉座、隣には僅かに控えめな王妃の座も備わっている。紋回りには銀飾りこそ施されているが、玉座はそれほど豪華な作りではない。あまり大きいものは好みではなかったし、リシャールの身長や部屋の大きさが考慮され、高さも控えめにしてあるのだ。ジョゼフ王などが座れば、紋章が半分隠れてしまうだろう。
 カトレアが席に着く衣擦れの音を耳だけで確認し、リシャールは玉座の上からペルスランに頷いた。
 ペルスランとても多少は場に慣れているという程度だったが、トリステインより借りていた侍従は既に帰国していたし城にも庁舎にも式部官をこなせる者などおらず、仕切は全て、オルレアン家から『一時的に借りた』彼が行うことになった。
 リシャールに一礼、居並ぶ面々に一礼の後、彼は段座の左手前にて背をしゃんと伸ばした。
「ただいまより、叙爵式ならびに叙任式を執り行います」
 リシャールは、平素の言葉と式次第で式典を挙行することを選んだ。
 トリステインでは古式ゆかしい言葉遣いと伝統の元で叙爵式が行われていたが、セルフィーユは今日始まったばかりである。……国が続けば、そのうち古文になるだろう。
「陛下より先に御下知がございました通り、建国に功績ありと認められた諸卿に爵位が授けられます。
 ……名を呼ばれた者は前に」

「マルグリット・『ド・ポワソン』」
 マルグリットはそれこそ建国以前よりリシャールを支えてくれた、股肱の臣ともいうべき女性であった。本人は貴族となることにかなり躊躇っていたようだが、貢献度で言えば筆頭格の彼女が叙爵を辞退すると皆が混乱する。リシャールは半ば泣き落とすようにして、爵位を引き受けて貰った。
 彼女は王政府には入閣しない。元筆頭家臣にして第一席の貴族という名はついてまわるが、ラ・クラルテ商会の正式な会頭に就任し、製鉄所、武器工廠、水産加工場、工務部など、セルフィーユ経済の基幹を支える役割が期待されていた。

「フレンツヒェン・『フォン・ハイドフェルド』」
 内務卿兼任の宰相として、彼は今後王政府の首班となる。詳しく聞いたことはないがフレンツヒェンはほぼ間違いなくゲルマニア貴族の出身で、それなりの地位と血筋を持っていたのではないかと思わせる言動もしばしばだった。新教徒としてこの地に流れてきた人々の中でも頭一つ抜きんでた人物で、彼が居なければ、マルグリットもリシャールも伯爵領時代の途中で潰れていたかもしれない。
 家名については名前同様、トリステインを基調としたセルフィーユ風に改めるかどうかは個人に任せていた。一つだけリシャールが留意したのは、他国にある家名と重ならぬように配慮すること、同名の場合は許可を得て名乗ること、それだけであった。もっとも新教徒の貴族に限っては、旧家名への復旧はそれぞれで自主的に避けたようである。
 ……無論、爵位の授与を内示して予定する家名の下調べを命じたが、数日で確認がとれるはずもなく、問題が起きそうな場合には後日改名するよう予め言い含めてあった。

「アレクサンドル・フランシス・『ド・ラ・ラメー』」
 その活躍振りとは裏腹に昇進や叙任を蹴り続けた老艦長だが、さすがに一国の空海軍を任されるとなって腹を括った。艦長職を降ろされるわけではないからという、個人的な理由も含まれているのかもしれない。
 彼は家名をラ・ラメーのままとしたが、トリステインのラ・ラメー家からセルフィーユのラ・ラメー家が分家されたという形式になる。千年ほどの昔に、ガリアのアルトワ家からトリステインのアルトワ家が分家したように、ある種の生き残り戦略と言えないこともない。

「レジス・『ド・ヴァンサン』」
 彼もまた、ガリア出身の元貴族士官である。ジャン・マルク転任の後を受けて領軍をまとめあげ、過不足無く手腕を振るってきた。平時の軍政にも理解があるようで、予算と方針を示して需品を手配するだけで領軍が回っていたのは間違いなく彼の功績によるものだ。

「ジャン・マルク・『ド・アンドリ』」
 セルフィーユ家創設以来、筆頭侍女ヴァレリーとともに夫婦揃ってリシャールを支えてくれた彼のこと、今後も夫は近衛の隊長、妻は女官長としてセルフィーユ家の内向きを采配して貰わなくては、本当に家と城が回らない。本人はこれも役得と涼しい顔であったが、これで報いたことになるのかどうか、なるべく平穏無事を願いたいリシャールであった。

「以上五名を貴族に列し、男爵家の創設を許す」
 一同はこれまでのセルフィーユ興隆に於ける要であり、今後もセルフィーユ貴族の筆頭格として誰一人欠かせない。
 名を呼ばれた五人が並んで跪くと、リシャールは一人一人の忠義と功績を称えて儀式を執り行い、男爵に叙していった。
 彼らの肩に掛けられたマントは無紋で、いかに授爵の決定から時間がなかったかを示している。もちろん、後ほど改めて紋章が入れられたマントが下賜される予定だが、爵位を授ける方も受ける方も、それを見守る人々も含めて十分に現状は理解していた。
 
「続いて、勲爵士の叙任を行います。
 ……名を呼ばれた者は前に」
 武器工廠のフロラン、司法官改め法務長官となったオリヴィエ、リシャールの兄ジャン・マチアスらが次々に名を呼ばれ、肩を王錫で叩かれては無紋のマントを授けられていった。
 閣僚級の文官、領軍改め王国陸軍の士官、こちらも王国空海軍と改名された元領空海軍所属のトリステイン出身の士官たち、そこにトリスタニアで先に叙任されたアニエスを含めて総勢二十二家が新たに家名を許された。
 この数は人口四千人弱のセルフィーユにしてはいかにも多そうだが、実は貴族人口の比率は家族まで含めても列強各国の半分から四半分である。年金に使える予算の都合もあったが、諸侯層とその家臣が居ないことや、国の規模そのものが小さいことも影響していた。
「以上男爵五名、勲爵士二十二名の諸卿には、家名の続く限り家格に応じた貴族年金が下賜されます。
 また、既に任地に赴かれておりますが、先だってシュヴァリエに叙されたミラン卿には、別途シュヴァリエ格の騎士年金が生涯に渡って下賜されます」
 ……ちなみにこの二十二家の勲爵士家には当主不在で家名だけを発表された家も含まれているのだが、異議を唱えた者はいなかった。

「以上で叙爵式ならびに叙任式を終了いたします。
 ……陛下、お言葉を賜りたく存じます」
 式の終了に一同の礼を受け、リシャールは立ち上がった。
「皆、楽にするように。
 ご列席のお客人には、見届けご苦労でありました。
 これがセルフィーユのあり方、その第一歩だと言うことを、心の隅にでも留めおいて戴きたいと思います」
 リシャールは参列客を労ってカトレア、マリーと共に退出を許し、居残った貴族達に今後の方針について所信を表明した。
 まずは国内の整備と国民生活の安定化、地方領時代より一変した状況に対応した商業政策の転換、建国に伴う庁舎、領軍、領空海軍の再編とその人事も発表して行く。
 また細かいところでは、ギルドの長リュカをラマディエ市長に指名して市民の代表とし、彼に加えてシュレベール、ドーピニエ、ラ・クラルテ、サン・ロワレ、エライユ、ラエンネック、ル・テリエの各村長は、任期中に限り年度毎に歳費が下賜されること、先日のアルビオン艦隊来訪の折に空港の桟橋が埋まってしまったことから、アリアンス島にある廃城の軍港部分を一時的な泊地に使えるよう近日中に整備することもあわせて伝えられた。
「残念ながら盛大な祝賀会を催す暇も予算もないが、せめて食事ぐらいは共にと思って用意させている。
 予定のない者は今夕、城の方に顔を出して欲しい」
 先に伝えてはあるのだが、これを締めくくりとしてリシャールは玉座の間を退出した。
 玉座を降りてようやく一息をついたが、言葉遣いや式典はあれで良かったのかと、しばし黙考する。
 見届けの招待客に王弟家が含まれていたが故の言葉遣いの配慮、その後の主君……いや、王としての態度。それを切り替えて、良いものだったのか否か。あるいはいっそ、本当の意味も分からぬまま『朕は国家なり』ぐらい言い切ってしまった方がいいのかと、余人には計り知れぬほど真剣かつ滑稽な悩みを自問自答する。だからとジョゼフ王やジェームズ王のような態度が取れるか、取るべきかと言えば疑問も残るし、領主時代でさえらしくなかったリシャールであった。
 結局は自身で答えを見つけて行くしかないし、玉座と王冠の使い方は、今後も自分を悩ませ続けるだろう。
 独立や家屋の購入を国に喩えて一国一城の主などというが、本物の一国一城の主と果たしてどちらが幸せだろうかと、リシャールは外した大宝冠を手にため息をついた。

 翌日昼は馬車での国内巡幸、夜は略冠の作成に手を着けはじめ、次の日は第一回の御前会議、その次の日は使節団の送り出しと、息をつく暇もない。……自分で決めたのだから文句も言えないが、国の体裁が調うまではこの調子であろう。外務府は人選さえも決まっていなかった。
「ではラ・ラメー特使殿、ポワソン副特使殿、頼みます」
 リシャール自身は雁字搦めで動けないが、放置もできなかった中小国……とは言っても国土、人口、経済、歴史、文化のどれもがセルフィーユを上回る大国であったが、トリステインを挟んで『ご近所』となるクルデンホルフと、ゲルマニアの北にある『三大』小国のアウグステンブルク、ベルゲン、オクセンシェルナにだけは、ご機嫌伺いと挨拶を兼ねた親書を送るという形式で、親善使節を組織していた。
 同じゲルマニアを挟んだ隣国でも東部の中小国家にまで人を送る余裕はなかったし、更に遠いガリアの南やロマリアの近隣ともなると、出身地に近い誰かが名前ぐらいは知っている程度でまともな資料すらない。それにアルビオンのジェームズ王への挨拶を済ませぬまま、自身が赴くのも少々気が引けた。
「お任せあれ」
「では、行って参ります」
 北方三国は航路図の更新も兼ねて航続距離の長い両用艦『サルセル』でラ・ラメーが引き受け、『ドラゴン・デュ・テーレ』は整備も兼ねて一度配置から外された。同行のマルグリットには経済方面の視察と、貴族の社交は知っていても軍務一筋のラ・ラメーでは補いきれない政府間のやりとりについて任せてある。
 クルデンホルフには既にフレンツヒェンが馬車で向かっており、数日後には帰国の予定だった。

 外向きの用事が動き出すと同時に、主君不在な上に先行き不透明で方向性が定められずに滞留していた国内も動き出していた。幸い、急ぐのはリシャールの手元で溜まっていた書類程度で、方針が打ち出されれば流れ作業にも似た勢いで処理が進む。
「丁度良かった、ブルーノ書記官」
「はい、陛下?」
「この触書は明日の朝公布する分、こちらは財務卿宛で頼みます」
「畏まりました」
 準備だけは整っていた庁舎の王政府化はともかく、領民も国民と名を変えただけで、彼らに新たな責務や税が上乗せされたわけでもない。城も住人が増えたものの、ガリア王弟家の二人は内に篭もる性分……というよりも、本調子ではない夫人は静かな生活と亡夫の服喪を望んでいたし、タバサの方も母親の側についている時間が多くなった程度で、内勤のメイドや従者達は魔法学院の生徒達が滞在していた頃の方が忙しかったほどである。
 領主時代にはトリステイン王政府の管轄であったゲルマニア国境部の関所と港の税務部署が移管され、新たに二つ、トリステインと繋がる街道上にも関所が設置されることになった。セルフィーユ、トリステイン、ゲルマニア、アルビオン、その政府の官吏も通行する商人も、そして値段の上がった商品を買う人々も……誰もが欲していない関所だが、設置をしないとハルケギニア中から非難を受けるのはセルフィーユだけという、真にありがたくない重石である。建国で注目されている今は、不正も行わせずザルでもなくと、真面目な運営を心懸けるように命じておくしかなかった。
 それに、効用はもうひとつある。今でさえ煩雑な納税時の手続きから、関税の計算を排除できるのだ。
「陛下、『カドー・ジェネルー』、只今帰還いたしました」
 シャミナード艦長が定期便の戻りに合わせて庁舎に顔を出すのは、もはや決まり事だった。
 特に今はトリステイン王政府とのやり取りが必要で、一時的に増便された『カドー・ジェネルー』は、官吏の走り書きを封書しただけのものからアンリエッタを筆頭に複数人の署名が入った公文書まで、様々な情報をセルフィーユに運んでいる。
「預かって参りました書類は以上であります」
「ご苦労様」
 そして、シャミナード艦長の隣にはもう一人。
 時には書類といっしょに、専任の役人がトリスタニアからくっついてくる事もあった。
「こちらです。
 お改め下さい」
 今日シャミナード艦長と共にやってきたのは、デムリ財務卿配下の役人である。彼はリシャールへと、銀飾りのついた小箱を恭しく差し出した。
 しかし中身は銅貨が二枚きりである。それぞれが、裏と表を上に向けて収められていた。
 表には『始祖の恩寵による云々……』とお決まりの聖句が、盾の中に交差した鉄剣と意匠化されたセルフィーユを取り囲んでいる。
 そして裏面には国名と、リシャールを称える意味の古語、そして……その肖像が刻まれていた。
 後に『リシャール・ドニエ』と呼ばれるこの銅貨には、屋台で揚げ菓子が買えるだけの価値しかないが、セルフィーユにとってその意義は金貨どころでは済まない。
 この真新しい一ドニエ銅貨……正確には合金である青銅が使われている青銅貨だが、これはトリステインに試作が依頼されたセルフィーユが発行する貨幣、その第一号であった。実際に生産と発行を行うのはセルフィーユの王政府だが、型金の製造や基本的な設備の用意のみならず、生産や管理の指導もトリステインを頼る予定で条件がまとまっている。
「……感慨深いものですね」
 言葉とは裏腹に、内心で誰だこれはと思っていたリシャールである。自分とは思いたくなかったが、銅貨の中の肖像はいかにも国王らしく見えた。
 貨幣には神聖にして不可侵という意味を込めて国王の肖像が刻まれるものらしく、金貨や銀貨も型金と試作品が発注されている。当初はせめてセルフィーユ家の紋章と、あとは数字を大きめに配するか絵柄でも入れて済ませたいなどと考えていたが、悪目立ちを避ける意味でも肖像の回避は不可能だった。
「出来については満足の行くものですが、見積もりの方はどの程度になりましたか?
 デムリ閣下には、かなり無理を申し上げたと思いますが……」
「はい、こちらをご覧下さい」

 当初は管理する手間とそのコストを考慮して、いっそ生産までをトリステインに完全委託して『輸入』するかとリシャールは考えていたのだが、想像以上に厄介な貨幣発行益と呼ばれる利権問題が絡むことに気付かされ、国内での生産に踏み切る決定を下していた。
 王権に含まれる貨幣鋳造の権利とは、有り体に言えば……作れば作るだけ利益を生む、正に国家というメイジが行う『錬金術』の秘伝なのである。一リーブル分の金地金から作られる金貨の額面合計は、一リーブル分の金地金を『上回る』ように協定で保護されていた。
 では財政が傾いているトリステインや、余力のないアルビオンなどがそれを大々的に行わないのかと言えば、大国の矜持と他国の目と市場原理がそれを邪魔している。
 言うまでもなく不正に品位や含有量を落とすことは、一番影響を受ける商人も含めた各国相互監視の元で戒められていた。
 例えば、標準的な一エキュー金貨の品位をそのままに十倍の重さを持つ十エキュー金貨を発行しても、貴国の金貨はずいぶん重いですなと嫌味の応酬ぐらいはあるかもしれないが大きな批判が集まることはない。等量等価の大原則が守られているからだ。しかし五倍の重さで十エキュー金貨を名乗れば、それどころでは済まなかった。
 表向きは過去の諸国会議に於ける合意で結ばれた協定とされていたが、世界の大国たるガリアの貨幣に大きさや品位の基準と、ついでに『エキュー』『スゥ』『ドニエ』と単位までが合わされているのは、何も国力差だけが原因ではない。他にも犯罪や不正行為としての偽造や変成はともかく、例えば他国よりも僅かに金の含有量が多い金貨は目端の利く者が集めて鋳潰すか貯蓄するし、少なければ『悪貨』として忌避される上に、他国からの遠慮ない抗議に晒された。
 市場での利便性や有形無形の圧力が世界の約束事になって、一エキューはどの国でも一エキュー……基軸通貨として使われていた。経済的発展が著しいゲルマニアでさえもそれに同調していたから、両者を向こうに回せるはずもなくお目こぼし程度が関の山、地方通貨はあっても大陸中央では無視されているか品位に応じた価値のある貴金属片として扱われ、あるいは規格をガリアに合わせて名前だけを残されているのが実状であった。
 更には国力に合わせて発行を行い毎年一定量の利益を生ませるのが最も効果的で、作りすぎれば市場を荒らすことも既に知られている。欲に狩られて実際に行ったとある都市国家は、各国から寄って集って『物理的に』潰されてしまった。
 それでも背に腹は代えられないのか、トリステインなどは苦肉の策として旧来のエキュー金貨に対して価値の低い『新金貨』を意図的に発行していたが、旧金貨に対して三分の二の価値で流通させている。新しい種類の貨幣は増えたが、旧金貨の回収を伴った改鋳ではないことが、民草の生活を守ると同時に国の信用と発行益も守っていた。この配慮がなければ市場は混迷を極め、世界中から非難の嵐を受けたことだろう。
 もちろん、セルフィーユも際限なく金貨銀貨を発行できるわけはなく、国力に合わせた量、例えばトリステインの百分の一から五十分の一程度ならば、品質を守っていれば横槍は入らないと聞いていた。
 しかしながら、それらは金貨や銀貨の話である。リシャールの目の前にある一ドニエの銅貨一千枚、一エキュー分と同じ重さの青銅の塊の市場価格は、およそ半エキューから一エキュー弱であった。流石に職人がハンマーを振るって一つ一つ作る時代はハルケギニアでも過ぎ去っていたが、加工機械の代金や保守費用、職工の賃金を考慮すれば、銅貨は儲からないどころか損をする『錬金術』となってしまう。
 しかし補助貨幣として少額決裁に必要不可欠であることと、二ドニエあるいは五ドニエ貨といった合間の貨幣で損益を吸収できること、そして大事なことだが、安価ゆえに国の隅々まで……それこそ貧民街の子供にまで行き渡る影響力から、一定量がどこの国でも作られていた。

「デムリ閣下には、了承しましたとお伝え下さい。
 それから、金貨銀貨の試作はそのままお願いしますが……設備が整っても、実際に手を着けられるのはやはり来年か再来年以降になるとお伝え下さい」
「はい、財務卿閣下からもそのようにお聞きしております」
 こちらも設備はトリステイン任せだが、地金を調達する元になる予算の用意もあるし、職工の熟練にも時間は掛かる。一ドニエ銅貨も歩留まりが良くなるまでは、日産数十枚から数百枚が限度だろうと見積もられていた。
「……」
 トリステインの財務官吏を帰したリシャールは、小箱の中身を一つ取り出してみた。
 ……慣れ親しんだトリステインの一ドニエ銅貨と変わらない重さだが、不思議と軽く感じる。
 だがそのものの軽さと意味の重さにため息をつくと、秘書官に頷いて次の訪問者を招き入れた。




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