ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
第三十三話「光の国」




 アクイレイアの港では危うく両用船用の桟橋に案内されそうになったが、何とか事なきを得て手続きを終えたのが昼過ぎ、さて教皇聖下に連絡を取るにはどうしたものかなと思案していると、向こうの方から迎えが来た。
 宗教庁の使いを名乗った聖堂騎士に跪かれる。
「聖下がお会いになられます」
 リシャールは一瞬だけラ・ラメーらと顔を見合わせ、王冠、王錫、宝珠、ついでにこれもガリア王から貰ったガウンをジャン・マルクとジネットに持たせると、差し回された馬車にさっさと乗り込んだ。
「陛下」
「なんです、艦長?」
「確かロマリアでは、武器の持ち込みに制限があったかと……そうでしたな、聖堂騎士殿?」
「はい。
 鞄などにしまっていただくようにしております」
 ラ・ラメーの指示でジュリアンが走り出し、しばらくして大きな旅行李を担いで帰ってきた。
「フェリシテさんにも相談したんですが、陛下の軍杖や隊長殿の剣が入りそうなやつはこれしかなかったんです……」
「あー、うん、わかってる。
 武器を売りに出すときに使う長物用の行李は、用意していなかったと思う」
 しまらない出発になってしまったが、杖をフネに預けて身一つで馬車に乗るのも心細い。座席に鎮座した行李と向かい合わせに座ると、艦長らの敬礼に見送られて馬車は港を出た。

 いつのまにか、主要国のトップであと直接面会していないのはもう教皇だけになっていた。
 今回のロマリア行きなどはそれが目的なのだから間違ってはいないのだが、慣れていく自分になんだかなあという気分もある。お膳立てまで調っているのだからと、少々の警戒心をふりかけていつものことだなで済ませてしまうのがいいのだろう。
 それにしてもだ。
「……」
 素早い対応に感謝でもした方がいいのか、それとも充実した情報網だと感心するべきか。自分の訪問を知らせるためだけに竜使でも飛ばしたのならご苦労なことだが、諸国会議に呼ばれる大国の一つであれば隣町に伝令を走らせるのと変わらない感覚なのかも知れない。
 ウェールズらの話しぶりでは新教徒の一件は掴まれているらしいが、さて、あちらはこの札をどう切ってくるのかなと考えたところで逆らえるはずのない相手、適当に挨拶をして機嫌を損ねずにとっとと帰るのが一番だった。

 マザリーニやウェールズからは、少々深刻かつ物騒な忠告を受けていた。
 曰く、小国らしく適度に距離を置き、『公然の秘密』と知らぬ振りをして路傍の石に徹するのが一番、間違っても口実を与えてはならない……。
 二人は更に、滅ぼすには五月蠅くて面倒な行き場のない者たちの受け皿として、セルフィーユの建国は押し切られてしまったと解いた。ロマリアにとっては新教徒、ガリアにとっては王弟家。それを押しつけるには丁度良い時期、丁度良い位置に誕生してしまったらしい。代わりに国境を接するゲルマニアも手を出しようがないし、トリステインも取り戻すことが不可能な流刑場である。
 僅かながらに幸いだったのは、セルフィーユ独立の経緯と共に、これらが各国首脳間だけに限っての『公然の秘密』とされていることだ。セルフィーユはリシャールの出奔と共にトリステインが許して独立したことになっていたし、新教徒はどこにもいないことにされていた。黙って口を噤んでいれば、表向きは『普通の』独立国としてやっていける。
 あとは手のひらを返されぬよう立ち回るだけなのだが、口で言うほど簡単なわけもなく……。
 ガリアも今ひとつ何考えているのか分かりかねるが、ロマリアの方がもっと深刻だ。
 ロマリアの取りうる選択肢の中で、リシャールにとって一番まずいのは、公表されて『大変なことが発覚した。セルフィーユは新教徒の集まりだから、国ごと滅ぼしてしまえ』となることだ。
 こちらが新教徒など知らぬ存ぜぬを通すように、あちらも諸国会議での密約など知らぬ存ぜぬを通すだろう。なれば声も態度も国力も大きいロマリアの方が勝つ。今回は諸国会議の直後ゆえに見逃されると思われるが、その後はどうなるか知れたものではない。
 長い物に巻かれているのは今更だが、せめて首だけは締まらぬよう何とか今日の挨拶を終えねばと、リシャールは気を引き締めた。

 馬車は橋の上から水路を見下ろしながら、市内の中央へと入っていった。観光だけでなく荷役にもいいのかと、穀物袋を山積みにした小舟を見送る。
 水に映えるよう計算されているらしく、磨かれた寺院の壁は確かに見物だ。リシャールは窓の外をぼんやり眺めながら、考え事を堂々巡りさせていた。
 やがて馬車は、門扉が大きく開け放たれた一番大きな聖堂へと入って行った。
 中は市中以上に『金ぴか』としか表現のしようがない、壮麗ながらもどこか成金趣味の大聖堂や鐘楼が並んでいる。
「流石は『光の国』だなあ……」
 ……リシャールも自分の心に嘘はつけないが、口に出したのはそれだけだ。『光の国』は信仰の国ロマリアの異称である。
 馬車が止まった。
 車寄せには聖堂騎士と神官が整列し、若い司祭がリシャールを出迎えた。
「ようこそロマリアへ、リシャール一世陛下。お出迎え役のジュリオ・チェザーレと申します」
「セルフィーユのリシャールです。
 急な訪問にも関わらず馬車まで出していただきまして、とても助かりました」
 名前も知られているようだし、自己紹介は端折ってもいいかと、名と詫びだけを口にした。既に『王様セット』は身に着けている。
 よく見れば、本当に若い神官だった。歳はリシャールと大して変わらないだろう。見目も美しい美形で、ついでに左右の目で色が違うオッドアイ、名前まで過去の大王にあやかっているなど出来過ぎだ。もてるだろうなあといらぬ感想を一瞬だけ抱き……まあ、どうでもいいことかと案内に従って、聖堂内へと歩き出す。心の余裕は大事でも、そのようなことを気にしている場合ではない。
「陛下、ロマリアは初めてですか?」
「ええ、そうです」
「いかがです、我が国は?」
「大変美しいところですね。
 うちはまだ、建物の外装に気を使う余裕などありませんから……」
 数が足りぬとなりふり構わず建てていったせいもあるが、セルフィーユでは家の壁はおしなべて魔法で固めた土壁か、石造り、煉瓦、板張りといった素材そのままの地味な色で、この街のように華やかな印象はない。実用本位に偏りすぎていても街が活気づいて見えるのは、ひとえに人々の様子故だった。
「どうぞ、こちらの部屋になります」
 大音声の呼び出しもなく、廊下と部屋の並び具合から察するに、応接室程度の部屋らしい。……小国と侮られているんだろうなという気持ちもあるが、新教徒を押しつけるぐらいだ、お忍び同然の扱いでも向こうにしてみれば破格の扱いをしてやっているんだと言われれば、そうですかと頷くしかない。
 オッドアイの神官は手づから扉を開けた。
「聖下、失礼いたします。
 リシャール陛下がいらっしゃいました」
 神官に続いてリシャールも入室し、聖衣に背の高い聖帽の、やはり若い男を認めた。軽く会釈をしつつ室内の広さなどを勘案し、適度な距離を見定めて跪く。
「リシャール・ド・セルフィーユと申します。
 この度は教皇聖下のご尊顔を拝する名誉を与えていただき、感謝に堪えません」
「遠路はるばるようこそ、リシャール王。
 どうぞ頭をお上げになって下さい。
 さあ、こちらへ」
 ロマリア連合皇国の、そしてハルケギニアの全ブリミル教徒の頂点に立つ男、聖エイジス三十二世ヴィットーリオ・セレヴァレ。年の頃はウェールズと似たようなものだろうか。だが彼には失礼ながら……これはまた、格が違いすぎるなという印象をリシャールは持った。心の中に響きわたる警報の音量で言えば、先日話す機会のあったガリアのジョゼフ王と同程度、方向性は異なるが、心から応対を拒否したくなるような相手だった。
「どうかされましたか?」
「……聖下のご威光に心を打たれておりました」
 リシャールは再び深々と頭を下げた。これはまた一筋縄では行かないなと考えながら、招きに従ってソファに腰を下ろす。
 落ち着かぬリシャール対し、ヴィットーリオはにこやかな表情のまま、恐ろしく直截に切り出した。
「さて……リシャール王」
「はい、聖下?」
「単刀直入に申し上げますが、新教徒はこのままあなたにお任せします」
 リシャールは流石に息を呑んで、まじまじとヴィットーリオの表情を見つめた。
 言葉通り単刀直入だが、もう少し手心と前置きが欲しいところだ。第一自分は、新教徒ではない。……だがそれは、無意味な主張でもある。
「リシャール王には迷惑でしょうが、彼らには何もさせず、ただただ飼い殺していただきたい。彼らがセルフィーユで大人しくしている限り、ロマリアはリシャール王の顔を立てて王国には余計な手を出さぬと確約いたしましょう。
 ご存じですか?
 実践教義がどうのと大層立派なお題目を唱えてはいますが、新教徒など、ただただ自分が大きな分け前に預かりたいだけの、強欲な連中の集まりでしかない。
 手間も暇も国力もかからず、手紙一つで静かになるならそれに越したことはありませんから。
 おわかりでしょうか、我がロマリアは、彼ら目障りな異端共がどうなろうとどうでもよいのです」
 先代教皇の頃には随分と新教徒狩りが激しかったようだが、新教皇は方針を変えたのだろうか?
 しかし……物言いも態度も、正に大国、正に宗教国家の論理である。
 監獄、流刑地、島流し。あるいは、孤児院か姥捨て山か。
 リシャールは、看守か世話人という役どころなのだろう。
「こちらの都合ですが、異端共との勢力争いに国の力をつかう暇があれば、他に使いたいところなのです。
 アルビオンを乱しているレコン・キスタなる輩然り、一見平穏なように見えて王弟派の影響力が未だ残るガリア然り、ゲルマニアも目先にある領土のことばかり。……トリステインもセルフィーユが王国となってしまって、後始末が大変でしょう。
 ハルケギニアは、薄氷の上に足を乗せた鹿と大して変わらないのですよ」
 ロマリアのことには触れないのだな……とは口に出さず、リシャールは機械的に頷いた。
 そう言えば自分も大変だが、アンリエッタとマザリーニも帰国後の苦労苦難は並大抵のものではないはずだ。トリステインは外交的敗北を味わったに等しい。
 表向きは、セルフィーユ侯爵の高潔さとアンリエッタ王太女の英断に感服した各国が、これぞまことの主従、セルフィーユも単なる侯国に留めておくのは惜しい、これは王位を与えてしかるべきと教皇聖下のお墨付きまで頂戴して王国の建国を支持したという、どこの国の話でしょうかとリシャールの方が聞き返したくなるほどこれまた酷い美談に脚色される予定だった。いや、もうされているのかもしれない。……こちらは大きく喧伝されていないが、ガリアの王弟家も夫人の静養と、若き名君の元で遺児の教育を行うという名目で、セルフィーユに来ることになっている。
「しかしセルフィーユ王」
「はい、なんでありましょう?」
「立場も情勢も理解をされておられるようですが、ご希望ぐらいは口になさってもよいのですよ?
 ロマリアは、貴国に対して協力を惜しまぬつもりですから」
「ありがとうございます、聖下」
 微笑む教皇に、これも試されているのだろうなと思いながら、リシャールは小さく一礼した。言葉を選び、慎重に口を開く。
「国許で波風を立てるつもりも立てさせるつもりもありませんが、新教徒のことも聖下がご存じの建国の裏側も、そもそも無かったことにされているのですから、外交に、貿易に……その他にもまだまだあると思いますが、表向きだけでも普通でいて下さることが、なによりも私と王国、そしてハルケギニアの平穏に繋がりましょう。
 先ほどの聖下のお言葉こそを、真実といたします」
「……あなたは道理の分かる人物のようですね」
 ヴィットーリオは、聖職者らしい内奥の読めない笑みを浮かべて首肯した。
 リシャールの答え方がロマリアの希望に沿えたのかどうかは、正直分からない。だがそのまま部屋を追い出され、何事もなく無事港に返されたところを見ると、及第点は得られたのではないだろうかと思える。
 どちらにしてもブリミル教の総本山の意向に逆らえるわけもなく、ロマリアとセルフィーユの関係は大企業と孫受け零細企業のそれと比べて果たしてどちらがましなのだろうかと答えの出ない疑問を浮かべつつ、リシャールは早々にアクイレイアを辞した。
 あまり長居のしたくなる場所ではなかったし、リュティスにも用事が残されたままなのである。

 疲労困憊とまではいかなくとも十分に疲れ切っていたリシャールは、『ドラゴン・デュ・テーレ』に戻ると、一切を艦長らに任せて昼寝を貪った。
 暗くなった頃に起き出して、ジネットの用意してくれた若干だけ堅牢さのとれた新型ビスケットを、乾燥野菜の具が入ったイワシ味の汁物で流し込む。エルバートにはワインの一本でもつけるようにと言ってあったが、艦長から少年水兵まで食事は皆同じであった。砲員どころか侍女従者さえ極限まで減らしているのだから、専任の料理人など連れてきていない。
「ジャン・マルク隊長らにも休むように伝言を頼むよ」
「はい、畏まりました」
 まだ少し頭が混乱……いや、理解を拒否している。まったく、大した『光の国』だ。
 セルフィーユに帰るまでには、多少でも気の持ちようが変わるだろうかと、リシャールは自問自答した。

 風向きの具合が悪かったらしく、リュティスまでは三日半の復路となったが、予定にはまだ二日ほど余している。
 リシャールはエルバートと共に、再びヴェルサルテイル宮内のサン・シール離宮に入った。
 これも迎えが来ての大名行列であるが……セルフィーユが客の迎えに馬車を一台出す時、国力比で考えればガリアは馬車千台を出してもまだお釣りが来るのだ。あまり気にしてもはじまらないかと、スプリングの効いた車内で小さくため息を付いたリシャールである。
「リシャール殿、私のことは国許への早便などに使っていただいても良いのですよ?」
「ありがとうございます。
 今のところはこの旅程で得なければならない全ての解答が出揃っていませんし、アクイレイアに立つ前にウェールズ殿下が引き受けて下さったから、余裕があるんですよ」
 ウェールズを友としていても、その部下であるエルバートとのつき合い方が変わったわけではない。彼も人目があれば他国の君主として礼儀を示すし、リシャールも同様に預かった貴人の客に対する態度で彼に接する。友誼と礼節を互いに守った堅苦しくて、それでいて気安い関係は、この状況下、リシャールの心に少なくない平穏をもたらしていた。
「一番大事そうな、ガリア王弟家の滞在についても指示が出せましたからね。
 ……大国の皇太子殿下に伝令をしようと名乗りを上げて貰える自分が、果たしてそれに見あう価値があるのか考え込んでいるところです」
「殿下も楽しんで引き受けられたのでしょう。
 国外に出ると、まず最初に寄り道の理由を探すお方ですから」
「あー、その気持ちはよく分かります……」
 ウェールズなら、自分以上に堅苦しい生活を強いられているに違いない。端正なつくりの彼の顔を思い出しながら、リシャールは多くの共感と少しの同情を彼に奉じた。

 オルレアン夫人の治療薬が出来上がるまではまだ余裕があるとは言っても、サン・シール離宮でのんびりと過ごすことは不可能であった。諸国会議は閉幕していたが、同時にリシャールには事務仕事が発生していた。
 各国との国交に関する条約文にサインを入れては礼状を兼ねた挨拶文を捻りだし、各大使館へとジャン・マルクを走らせる。ここが大国ガリアの首都リュティスであることは幸いだった。アルビオンの大使館へはエルバートに向かって貰い、ガリアは同じ宮殿内だからと自分で歩いて届けた。
 これで二日ほどを潰した翌日、リシャールは同じヴェルサルテイル宮内の一角にある、プチ・トロワと呼ばれる薄桃色の壁で彩られた小離宮を訪ねていた。
 王の居城グラン・トロワと対を成すこの離宮は、第一王女イザベラの居城である。夕食でもご一緒にと、使者がやってきたのだ。断る理由はない。
 しかし、あの王の娘だ、たぶん一筋縄では行かないんだろうなとの予想に反し、会食は静かに進んでいった。
「オッホッホ、陛下は面白い方ですわね」
「恐縮です」
 ……どうにも読めない。
 よく調べてあるようだが、適当に褒めそやしては同意されるだけ。こちらも髪や装飾品を褒めてみたが、同じように返される。
 話題の選び方を見る限り政治色はほぼなく、そのことから愚かな姫でないことだけは推測できたが、リシャールは少々ちぐはぐな印象を受けた。
 イザベラ王女にも何か考えがあるようだが、一体何が目的なのかさっぱりわからない。
 あるいは……王女にとっては単なる顔合わせ、父王に命ぜられるまま、会食をしたという事実だけがあればよかったのだろうか。
「一つだけ、陛下にお願いしてもおよろしいかしら?」
「はい、どういったことでございましょう?」
「陛下のお預かりとなった王弟家には、わたくしの従妹がおりますの。
 この手紙を渡していただけませんこと?」
「もちろん、お預かりいたします」
 廃家された家の従妹では、会いにも行けぬだろう。波乱が起きませんようにと願いながら、手紙を受け取る。
 食後の茶会まで含めてイザベラ姫との邂逅は和やかな空気で流れたが、話の内容だけは全く以て無意味に近いやり取りに終始し……『シャルロットへ』と宛名が書かれた手紙を預かっただけで無事に終わった。

 エルバートにはイザベラ様はお美しい姫さまでしたよと一言告げただけで、会食のことは記憶の彼方に追いやり、リシャールは事務仕事を再開した。考えても埒があかないし、預かった手紙も開封は許されない。イザベラ姫はジョゼフ王やヴィットーリオ教皇のことを思えば失礼ながら小物という印象で、後回しでもよいだろうと思える。
 それにしても……国に帰っても大変だろうが、帰るまでも大変だ。
 治療薬を受け取ってオルレアン領に立ち寄り、アルトワ、ラ・ヴァリエール、王都の順で詫びとも礼ともつかない挨拶を入れてやっとセルフィーユに帰るのだが、その道中で必要な算段や手配に手抜かりがないかどうか、日に二度三度とジャン・マルクを『ドラゴン・デュ・テーレ』と往復させている。
「陛下、トリステインのお使者が訪ねて参られました」
「……すぐにこちらへ通して下さい」
 書類を脇に押しやり、身だしなみを調える。
 ジャン・マルクに先導されて入ってきたのは、なんとモット伯爵であった。
「お久しぶりでございます、陛下。
 アンリエッタ王太女殿下より急使として遣わされました」
 当たり前のように、モット伯は跪いた。
 元はトリステインの諸侯であったとしても、既にトリステイン王家は他国の王たるリシャールに勅命は下せない。彼は王宮勅使の役目を賜っているが、いまは勅使ではなく他国の王への急使としてリシャールに相対していた。
「遠路ようこそ、伯爵殿。
 どうぞ、お立ちになられて下さい」
「失礼いたします」
 本来ならば呼び出しから歓待から手を尽くし、準備の末に迎え入れるべきなのだろうが、他国の離宮では何の繕いようもない。急使であったのも幸いしているだろうか。
 リシャールはアンリエッタからの手紙と、マザリーニから託されたという書類鞄を受け取り、代わりに素早く返書を書き上げて彼に託した。
 アンリエッタからの手紙には、アルトワとラ・ヴァリエールには寄港しなくても良いと書かれていた。来月の初旬、王宮にてセルフィーユの建国を『祝う』小さな夜会が催されることに決まったらしい。義父やアルトワ伯らも集まるので、詫びは一度で済むかなとリシャールは思案した。時間の余裕はほとんど見込めないが、一度はセルフィーユに戻ることが出来る。
 書類鞄の方は法的な手続きも含めてトリステインから分離されるセルフィーユの国権についての約定書の草稿、他国より関係を深くせざるを得ないことで必要となった条約の素案などが束になっていた。諸国会議上でリシャールに認められた王権には、領主時代に委ねられていた当地での裁判権や徴発権、徴税権だけでなく、軍権や貨幣鋳造権なども含まれている。
 この王権というものも、リシャールの身を守ると同時に悩みの種である。使い方一つだが、一生つきあっていかなくてはならない相手だ。
「さんざん指で弾かれるんだろうなあ……」
 ……自分の肖像画の彫られたエキュー金貨を想像して、リシャールは少し身震いをした。







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