ゼロの使い魔 ハルケギニア茨道霧中
挿話その十「タバサの冒険 〜タバサと侯爵〜」




 夏休みが始まる直前のこと。
 タバサは放課後、いつものようたまり場と化しているテラスの隅っこで、ブルーベリーのパイをつつきながら彼ら彼女らの話に聞き入っていた。

『学院の夏休みを利用してトリステイン王国セルフィーユ領に赴き、その詳細と動向を調査せよ』

 裏の顔である北花壇騎士としての任務を言い渡されて数日、現地に赴く前に普通の調査報告ならもう十分と言うほどの情報が集まったことで、タバサの憂鬱と困惑は更に増している。
 憂鬱は、親友のキュルケには絶対に言えないが、彼女が世話になっていたと言うセルフィーユのことを調査している心苦しさ。
 困惑は……その内容によるものだった。
「昨日の朝食で出たイワシの油漬け、あれも元はリシャールが関わってたはずだよ」
 セルフィーユの領主リシャール・ド・セルフィーユ、彼の親友で幼なじみだという同級生クロードの話は、多岐に及んでいた。夏休みの旅行先の領主ということもあって、皆で集まって話を聞く機会は自然と多くなっている。タバサも気が進まぬながら、積極的に加わっていた。

 クロードにとっては歳近い兄のような幼なじみで、性格はのんびり屋ながら切れ者であること。
 ルイズの姉と結婚していて、どこまでも愛妻家でとことん子煩悩であること。
 美食家ではないが食にはこだわりがあり、セルフィーユでは時に変わった料理が食卓に上ること。
 十二歳にしてトライアングルとなり、使い魔に竜を呼ぶほどの土メイジであること。
 シュヴァリエ持ちで二つ名は『鉄剣』、商才にも恵まれていて、彼の領地はめざましい発展を遂げていること。
 王政府から街道工事を任されていて、最近はアンリエッタ姫から直接声を掛けられるほど信頼されていると言うこと。
 そして、近日中にトリステインの国家宰相に就任する可能性が高いこと。

 男子生徒は凄い凄いまるで立志伝中の人物だと単純にはしゃいでいたが、タバサに元に集まってくる情報はそれに留まらない。
「去年は立太子式のおかげで、夏はセルフィーユに行けなかったのよね。
 代わりに家出したから、まあいいけど」
「ツェルプストー、あんたは極端なのよ」
 他にもクロードの話とは別の情報を、キュルケやルイズ、モンモランシーは女性陣限定でこっそりと交換しあっている。タバサ以外は本人と面識があるので、こちらでは一人聞き役にまわっていた。
「クロードが嘘をついてるわけじゃないんだけど、持ち上げ過ぎだわ」
「気持ちは分かるけど、本人を知ってるとねえ……」
 キュルケは当初無名だったセルフィーユ伯が、ルイズの姉カトレアと結婚するためだけに努力をして爵位を持つに至ったと、驚きの発言をした。彼女が言うには、伯爵は見かけによらず情熱の人だとか。そのようなことまで知る立ち位置とは、自分の親友とセルフィーユ伯爵夫妻は本当に仲がいいらしい。タバサはまた別のため息をついた。
 それを聞いたルイズは何かを思いだしたのか呆れ顔になってから小さく頷き、彼と恋仲になった姉が『出世して迎えにきて』とお願いしたら、ひと月少々で男爵になる算段を立てて本当に迎えに来たのだと口にした。……一言はっぱをかけるだけで恋人が男爵になれるものなら、誰も苦労はしないだろう。
 モンモランシーは、ルイズと仲良くなったきっかけは『あれ』だったわねと、微笑んだ。彼女たちは学院が貴族子女教育の一環として行う舞踏会で、全く同じ作りの眼鏡を掛けて現れたことがあった。トリステインでは最近、舞踏会で若い女性が身に着けるべき装飾品の一つとして眼鏡が重視されているが、そのきっかけとなったのがこのラ・ヴァリエール家の秘宝こと『恋人の出来る魔法の眼鏡』で、ついた名前はいかにも素晴らしいが実はセルフィーユ伯爵の手製である以外は何の変哲もない伊達眼鏡であると、種明かしされた。タバサは自分の眼鏡と見せて貰ったその眼鏡を見比べてみたが、華奢で飾り気のない作りながら全体のまとまりはとても良く、錬金の腕もそこそこあることが伺える。
「大事にしてるけれど、ラ・ヴァリエール家の秘宝なんかじゃないのは間違いないわね。
 モンモランシーも持っていたのには驚いたけれど……」
「わたしも驚いたわよ。
 年始の祝賀会の翌日だったかしら、セルフィーユ伯爵様が直接足を運んで下さったのよ。お父様が頼んで下さったらしくて、嬉しかったわ。
 他にも確か、アンリエッタ殿下もお持ちになられているのよね?」
「『恋人の出来る魔法の眼鏡』ねえ……。
 あたしはそんなものに頼らなくてもいいわよねえ?
 ルーイズさあん?」
「い、いいじゃないのよ!」
 キュルケは美人で、学年で五指にはいるほど胸も大きい。廊下を歩けば恋人が出来ると言われるほど、男が寄ってくる。
 それを聞きつけたルイズと軽い口げんかに発展しているが、最近は……特に彼女たち二人の関係は、入学当初のようなとげとげしいものではなくなってきた。その証拠に、同席のモンモランシーはまた始まったと苦笑に留めている。
 キュルケとルイズの実家同士が先祖代々不倶戴天の敵だというのは、改めて聞くまでもなくタバサも知っていた。だが、セルフィーユというきっかけを通し、彼女たちの距離は大きく変わったような気がする。彼女たちに手紙が届いて、夏休みの旅行が決まって、キュルケとルイズの口げんかが以前よりも回数が増えて……キュルケは相変わらずルイズをからかっているが、その内容がセルフィーユ絡みのものに変わってからは、気付けば彼女たちも含め、皆の関係がほんの少しだけ近しいものになっていた。
 キュルケは『ルイズは時々、ああやってあたしがお世話してあげないと駄目なのよ。カトレアからも、妹をよろしくって頼まれているものね』と笑っていた。彼女がルイズを大げさにからかうのは……実技の苦手なルイズが授業の後などで暗い雰囲気になっている時などに多いのだと、タバサだけは知っている。ルイズはおそらく気付いていないだろうが、彼女に対するキュルケの態度には、以前タバサと決闘に至った時のような本物のとげとげしさなどかけらもない。接し方は少々乱暴で悪戯心も含まれているものの、キュルケの中の『大人』が垣間見えるようで、ほんの少し……羨ましくもある。
「そう言えば昨日、またカトレアから手紙が来てたわね」
「ええ」
「何か予定が変わったりとか、特別なことは仰られていた?」
「大丈夫よ、モンモランシー。
 学院に来るのは予定通り、王都でリシャールが用事を済ませてからになるって書いてあったわ」
「じゃあ……エオーの曜日かマンの曜日あたりかしら?」
「……準備」
 いつの間にかモンモランシーもタバサも彼女たちに巻き込まれ、放課後に彼女たちの軽い口げんかを眺めながらテラスで過ごすのが日課になりつつあった。キュルケを介さず、彼女たちと会話を持つこともある。
 タバサの心の中には、情報収集と割り切ることの出来ない何かが生まれつつあった。
 
 しかし任務も放置できない。
 タバサは気が進まない中で、得られた情報を整理しながら考え込んでいた。
 それら集まってきた情報を並べてみれば、セルフィーユ伯爵の印象はどうにもちぐはぐな印象になる。
 歳は二つ上で現在十六歳だというのに、自分と同じシュヴァリエを……タバサのように特殊な事情を含まず空賊を見事退治してそれを得たと言うから、まともな軍才か、少なくとも艦長や部下の邪魔をしない分別があるのだろう。典型的なトリステインの軍人貴族の子であるギーシュやマリコルヌを見れば、それが十六の『子供』にとっては希少なことだとタバサには思えた。
 その上、領地経営にも手腕を発揮して領内を直接まとめており、王家からの信頼も厚く、年に一度爵位が上がるという異例の出世を重ねていると聞けば、何者なのだという疑問さえ浮かぶ。それでいて、ラ・ヴァリエール家の傀儡でもないと放課後の茶会を通して確認も取れていた。
 ここだけ注目すれば天才肌で切れ者の印象になるが、ルイズとキュルケが揃って懐くほどの女性が妻で、呆れるほどに子煩悩、本人は使い魔に召喚したドラゴンを見て、はじめて自分がトライアングルだと気付くほどのんびりとした性格なのだとも言う。
 彼女の亡父のように大人であればまた別だが……切れ者なのにのんびり屋という相反する要素が、その歳で二つながらに両立するとは実に不可思議だ。
 もしかせずとも本物の逸材なのだろうかと、タバサは評価を下しあぐねていた。

 月が開けて三日ほどで、旅行の当日がやってきた。準備などは、その前後のいつ、迎えが来るか分からないと聞かされていたので、全員既に済ませてある。
 クロードの連絡を受けたキュルケらと共に正門に向かうと、確かに中型の軍艦が錨を降ろしていた。
 学院の教師コルベールや同行者とともに見慣れない数人が背後に兵士を従えているが、あの中心がセルフィーユ伯爵夫妻であろう。キュルケとルイズが先を争うように飛び出していく。
 タバサがゆっくり追いつくと、ルイズにそっくりで少し年上に見える女性が、やはりルイズそっくりの小さな子供を抱いていた。
「あなたは二人のお友達かしら?
 わたしはキュルケのお友達でルイズの姉、カトレア・イヴェット・ラ・ボーム・ル・ブラン・ド・セルフィーユよ」
「……タバサ」
「じゃあタバサ、わたしも今日からあなたとお友達ね」
 ルイズをそのまま大人にしたようなカトレアは、キュルケのように微笑んで、母のように抱きしめてくれた。
 その抱擁は……タバサの一家が平穏無事に暮らしていた頃を思い出させるようで、暖かくもありながら彼女には少し哀しいものであった。マリーという小さな娘が父親のセルフィーユ伯爵に抱かれていることも、自分の小さな頃を思い起こさせる。
「よろしく、タバサ。
 この子はうちの娘で、マリー・ブランシュ。
 まだちょっと挨拶は難しいから、許してあげて欲しい。
 マリー、タバサお姉さんだよ」
「たばさ?」
「……そう、タバサ」
 そして当のセルフィーユ伯爵……もとい、昨日侯爵になったと頬を掻く彼は、確かに話通りののんびりとした様子で娘とタバサのやり取りに笑顔を向けていた。子煩悩ということは間違いないようだ。
 ただ、その雰囲気に不釣り合いな傷だらけの軍杖が、少しだけタバサの気を引いた。

「さあ、乾杯の後は、好きなものを好きなだけ食べて欲しい。
 みんなは貴重な夏休みを使ってセルフィーユへと遊びに来てくれたんだから、出来る限り歓迎させて貰うよ」
 最初の夕食は立食会形式で、王城で出されるほど豪華な内容ではなかったが、品数はやたら豊富で食材は同じでも調理法やソースの異なる料理がふんだんに用意されている。食へのこだわりは前評判を上回る様子で、タバサも素直に口を動かした。海に面しているせいか、特に魚料理が充実している。
 セルフィーユに着いてからは、キュルケらに振り回されるまま旅程をこなしていったが、しばらくすると朝食後のお茶の時間にそれぞれがその日の予定を決めるという形になっていった。初日こそ移動で潰れ翌日は全員で領内の主立った場所を観光したが、後はせっかくの夏休み、自由に過ごして貰いたいとのことで、城でお茶会を楽しむも良し、希望があれば領内の見学や観光も可能と、大盤振る舞いの様子である。
「僕は空港に行こうかな」
「明日は海が見たいわ」
「いいね。
 リシャール、構わないかな?」
「もちろんだよ。
 ただ、申し訳ないけど……城には八台も乗用馬車がないからね、業務に必要だし、全員がばらばらだと足りなくなる」
「うちもそんなにはないよ……」
「けれど、荷馬車でよければ日のあるうちは何便も街と往復しているから、そちらでもいいなら領内の行き来はいつでも出来るよ」
 気になるなら、常備軍や空軍の見学も構わないと侯爵は許可を出し、男子はそちらに殺到した。よほどの自信家なのかとタバサは考えたが、続く一言に納得する。
「領軍の方は訓練とは言っても野原しかない練兵場で走り回るだけだし、任務は領内の巡回と砦の見張りぐらいかな。物語や劇みたいに、秘密の任務なんて出しようもないし……。
 領空海軍も似たようなものだけど、そもそもがお下がりの旧式艦だからなあ。艦長たちには苦労をかけて申し訳ないけど、新造艦なんて夢のまた夢だよ……」
 王国が持つ大きな軍隊のように間諜や計略を恐れるような機密もなく、見られたからと困りはしないのだろう。この規模の領地では、タバサが所属する北花壇騎士団のような裏の組織は必要もないし、戦争は最初から慮外と侯爵は割り切っているようだった。
 だがセルフィーユは、常備軍六十余名に城を守る衛兵隊が二十名、空海軍は予備艦を含めてフリゲート三隻と田舎町には不似合いな規模の軍隊を有していて、おまけに聖堂騎士隊まで領内に抱え込んでいる。国境の警備も任されているとのことだが、戦争はともかく、盗賊団などが避けて通るには十全以上と思えた。
「野盗と亜人と空海賊以外が出てきたら、王政府に泣きつくよ」
「その割に鉄砲の工場とかあるよね?」
「鉄の塊をそのまま売るよりも、いい値段になるからね」
 あれはあれで維持が大変なんだと、侯爵は頭を掻いて見せた。
 しかし、軍隊はともかく自前で軍需品の工場を抱えるなど、兵隊をただ並べて見せびらかしたいだけの『子供』ではないのだろう。
 娘を抱えてにこにことしている様子からは想像もつかないが、本当に侮れないのかもしれない。

 翌日、男子生徒は早速訓練や観光に出掛け、タバサは城でのんびりするというキュルケらに一日つき合ってカトレア夫人やマリーに懐かれていた。
 カトレア夫人は……少し苦手だ。酷いことや意地悪などはただのひとつもされなかったが、優しく抱きつかれた時のぬくもりは、タバサにはとても危険な誘惑だった。どうしても、元気だった頃の母を思いだしてしまう。
 小さなマリーは妹でも出来たようで可愛かったが、やはりかつての日常を思い出させるようで、彼女の笑顔にタバサの心は乱された。
「こっちー!」
「マリーお嬢様、走っては危ないですよ!」
 カトレアとルイズとキュルケは午睡、モンモランシーは城下の村まで外出しているので、マリーの相手はタバサにお願いされていた。母親達とは入れ違いの昼寝明けとあって、彼女は元気いっぱいだ。雨の日以外、必ず散歩に出るのだという彼女につきあい、城内を見て回る。
 お世話係のメイドをひやりとさせながら、マリーはタバサの手を引いてとてとてと城の庭を歩いていった。いつの間にか、侯爵夫人が飼っているという白猫がお供をしている。
「あっち」
「にゃあ」
「……うん」
 猫をお供に、厩舎の馬をなで、裏庭に回って花の咲き具合に歓声を上げ、彼女は森へと続く散策路に入っていった。
 この城は正面の門と本邸が近いのでこぢんまりとした印象だが、城内に小さな森まで抱えており、見た目以上に奥行きが深い作りをしている。兵舎や下働きの宿舎など、下手をすると往事のタバサの実家より充実していそうな部分さえあった。
「この離れは特に用がないので閉じられておりますが、テラスだけは掃除を行っていますので、ご一家の皆様も散歩の途中でご休憩されるのです」
 森の奥にも小さいながら別棟があり、テラスから池が望めるようになっている。その池だけは真新しい雰囲気だが、今年になって作られたということだった。
「くりすたん! くりすたん!」
「プチ、いらっしゃい」
「なーう」
 テラスに到着すると、マリーは池を見ながらぺちぺちと手を叩きだした。誰かを呼んでいるのかと、タバサは白猫を抱きかかえたメイドに視線を向けて小首を傾げた。
「誰かいるの?」
「はい、誰か……と申しましょうか、この池には城内で勤めるメイジの使い魔が棲んでおりまして……。
 クリスタランは、マリーお嬢様のお気に入りなのです」
「くりすたん!」
 マリーの声に池を見やれば、白い小さな蛇がこちらに泳いでくる。水蛇の子供のようだと、タバサにはわかった。大きさもそうだが、使い魔ならばほぼ危険はない。魔法学院ではもっと凶悪な野獣や幻獣が広場で放し飼いにされているが、人間が不用意なことをしなければ彼らは大人しかった。
「くりすたん、いいこ」
 水蛇はそのまま陸に這い上がるとテラスまでやってきて、マリーに頭をひと撫でふた撫でされてから池に帰っていった。それを見届けたメイドが白猫を地面に降ろしたところを見ると、小さな使い魔が猫に狙われるのを防いでいたのだとわかる。
 タバサも来年の今頃は、使い魔を喚んでいるだろうか。魔法学院では、二年生への進級時に使い魔召喚の儀式が行われる。
 そのまま何事もなければ、来年もキュルケに誘われてこの城に来るだろうという予感がタバサにはあった。そして彼女はわたしの使い魔も同じように撫でるのだろうかと、池に手を振っているマリーに目を遣る。
 その姿が、小さな頃の自分に重なって見えた。
「たばさ、いいこ」
「……」
 表情が暗くなった自分を励まそうとでも言うのか、マリーがこちらに手を伸ばしている。
 タバサは従姉姫からの命令を思い出して現実に引き戻され……水面を見つめてひとつだけ小さなため息を飲み込んでから、彼女に笑顔を向けた。

 滞在も数日、タバサは皆の領内見学に紛れてセルフィーユのあちこちを巡った結果、当地の一般的な状況を把握していた。
 大雑把に言えば、面積は十分ながら侯爵領にしては些か開発の足りない領地……と言えようか。これでも、代官が支配していた王領時代から比べればセルフィーユ家の支配下に置かれてより領民の生活は格段に向上し、働き口を求めてきた人々が住み始めて領地の中心地であるラマディエには新たな市街地が広がったらしい。製鉄所に武器工場、大きな倉庫街や空港も、作られたのは領主の継承以降のことだという。
 街の人々の言葉を信じるなら、身一つで現れた当時十三歳の少年領主がほぼ全ての指示を出し、あっと言う間にここまで街が大きくなったようだが……。
「父からは、せっかくの機会だから、セルフィーユの庁舎を見せて戴けと言われてるんだ。
 もしよかったら、一日お供させて貰えるかな?」
 思案をしながらセルフィーユでの日々を過ごす中、男子生徒の一人がそんなことを言い出したのでタバサも便乗してみることにした。トリステイン貴族である彼とは違って自分は偽名の留学生、断られる可能性の方が高いだろうが、口にするだけならば損はない。それに、侯爵の対応も見てみたかった。
「……伯父から調べてこいと言われた」
 少し迷ってから、タバサは最大限の譲歩をした。嘘はついていない。
 どんな変わった仕事振りをしているのか、多少ならず知りたい気持ちもある。気分的には、北花壇騎士としての任務はついでに成り下がり、好奇心の方が上回っていた。
 侯爵は見かけと違って忙しい。タバサ達が滞在する間も、昼間は政務で庁舎に詰めていた。本当にお飾りではないらしく、朝に城を出ると夕方までほぼ戻ってこないのである。

 タバサも本来ならば、父が死亡した後はオルレアン領の領主か代行として、セルフィーユ侯爵のように領地の切り盛りをしていてしかるべきだった。政務の内容を何一つ知らずとも、代官を置くなり村や街の責任者に徴税だけを委託することは可能だ。年少の当主を戴く家だけでなく、当主が遊んで暮らす家にはよくあった。北花壇騎士の任務やトリステインへの留学を考慮しても、今も変わらず『オルレアン家』に仕える信任厚い執事ペルスランに一言告げれば良いだけのものだ。
 しかしそれは行えない。オルレアン領は今も変わらずオルレアン領だが、家紋には不名誉印が押され、王領に組み入れられることも他の諸侯に下げ渡されることもなく止め場とされていた。名を奪われ北花壇騎士として任務をこなすことで自分と母の命を繋いでいるタバサには、領地に何かを命じることそのものが、伯父王や従姉姫を刺激することになりかねない。税を集めれば財が集まる。領内への指示は、何であれ人が動く。旧王弟派による叛乱の準備などと理由をつけるには、実に好都合だった。
 結果、オルレアン領は政治的な意味で放棄地となっている。領内の村や街はタバサの意をくみ取ったペルスランによる内密な指示でひっそりと自治を行い、王政府も近隣の諸侯も、国王の逆鱗に触れることを恐れ見て見ぬ振りをしていた。

 だが、タバサの内心など関係ないようで許可は簡単に下り、間近に領主の仕事ぶりを観察することが出来るようになった。
「君たちはそちらを使ってくれ」
「ありがとう」
 警戒もされていないのか、領主の執務室には男子生徒レイナールと自分の為に机が運び入れられた。
 最初に手渡されたのは、庁舎に勤める官吏が最初に読まされると言う覚え書きをまとめた冊子である。内容の一つ一つは難しくないが、タバサから見ても広範に及んでいた。それこそ来客への挨拶や庁舎で扱う仕事の種類といった基礎の基礎から、主立った書類の書式とその流れ具合に役職や組織体系までが記されている。
 内部資料を見てもいいのかと恐縮するレイナールに、この冊子は新人だけでなく出入りの商人や領民らも見ているからと、侯爵は気安い様子であった。普通は外に出すようなものではないのにとタバサも思ったのだが、侯爵にその常識に当てはまらないようである。
「リシャール、これは全部君が考えたのかい?
 それにさっき見た家臣の人数……あんなに雇って大丈夫なのか!?」
「参考になるものがなかったんで、大手の商会の中身を真似て足りない部分を補っていたら、何故かこうなった。
 官吏の人数の方は……領地の規模に比べて多すぎで非効率だと怒られたこともあるけど、庁舎が本店で村の支所や王都の商館が支店だと思えば、あの人数でもまだ足りないぐらいだよ」
「あれでまだ足りないって……」
「その代わり、不正はやりにくくなってるよ。……僕も含めてね。
 手間は勿論かかるけど、それは信用という形でこちらに帰ってくるものだから、結果的には得なんだ」
 レイナールも首を捻っていたが、侯爵は根本的に領地に対する考え方が違うのだ。従姉姫から調査を命じられていなければ、タバサも気付けなかったかもしれない。
 よく領地の『経営』などと口にされるが、実態は『支配』である。だが侯爵は本当に『経営』しているようだった。領地と商売を同列に考えるのはおかしな気もするが、現実にこの領地は成長しており、侯爵は決して間違ってはいないと結論付けられる。
 タバサもここに至っては、セルフィーユ侯爵は少々風変わりながら優秀な人材だと、認めざるを得なかった。

 更に数日、セルフィーユ式の徴税方法を集中して学ぶレイナールとともに、タバサも侯爵から与えられる課題をこなしていた。言葉通りに書類仕事は想像以上の量だったが、新しい軍用糧食の試食や御料農地の視察、各村落への訪問など、侯爵が言うところの『息抜き』も少なくない。無理のない仕事のこなし方である。
 昼食に応接室で庁舎向かいの宿屋兼酒場の名物シチューをつつきながら、これまで与えられた課題を思い返すことも日課になっていた。
 情報も十分に収集出来たし、そろそろ北花壇騎士任務に手を着ける頃合いだろうか。あれは自分と母の命を紡ぐためのもの、報告は絶対に出さなくてはならない。心のもやもやと葛藤を押し殺しながら、タバサは侯爵とレイナールの交わす会話に耳を傾けていた。
 だがその日……。
「独立って……リシャールは何考えてるんだ!?
 宰相になるんじゃなかったのかい?」
 これを見越して自分はセルフィーユに送られたようだと、タバサは一瞬で理解した。侯爵は落ち着いたものだが、レイナールや他の面々は随分驚いた様子である。
 だが、一つだけいいこともあった。
 憂鬱な報告は……ほんの少しだけ、先送りに出来そうだ。




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